Kyo Co. のブログ

伝えたい、自分の目で見たものを、自分の言葉で。この世界の多様性への気づきが、自分らしくまた互いの生き方を尊重できる社会に繋がることを願いながら。

2年8ヶ月のミャンマー駐在を終えて、今私が思うこと。

ミャンマーから日本に4月に帰国してから、気づけば3ヶ月が経過していた。ミャンマーへの思いが強すぎて、逆に近づけない?ような感情を抱いてきたが、、離れる前に書きなぐった自分の思いをようやく今、アップしてみようと思う。

 

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いよいよ、本日日本へ帰国(書いてた当時4月上旬)。本当は、7月の予定だったが、コロナのため時期を早めて帰国となった。この一ヶ月は本当にしんどかった。メンタル的にも身体的にも、コロナとそれに纏わる反応、対応に翻弄された。

 

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そして、日本に帰るとなった今、思うことは、寂しい。

 

ただただ、寂しい。ミャンマーの全てが愛おしく感じる。こんなにも自分がミャンマーを好きだったなんて。人、空気、気候、におい、食べ物、ミャンマー語、景色、どれもが愛しい。また、今回突然の帰国だったために、事務所のスタッフメンバー含めミャンマーでお世話になった沢山の人々にお別れが出来なかったのが何よりも無念だ。

 

今回の帰国の経緯だけでも、別記事が書けるボリュームだが、非常にタフだった。様々な葛藤、不安、ストレスと戦った。勿論、それらはコロナによるものでもあったが、元々存在していた組織の課題がこういった緊急期に浮彫になった気がする。緊急下であるからこそ、問われる情報収集力、分析力、判断力、遂行力。状況を待つだけでなく、予測して判断していかなければならないと思った。途上国の田舎街であるからこそ、余計に意識して行わないと完全なる浦島太郎となる。また何か課題にぶつかった時は、我慢せず早めに意見を上に上げることの重要性も改めて学んだ一ヶ月だった。

 

結局、私個人としても組織としても帰国という決断に至ったが、勿論現場を去ることや本来の責任を全うすることが出来ないというのは、非常に悔しく寂しい。しかし、今この状況で自分が残ったところで、出来ることはかなり限られるばかりか、外国人である自分がいることで、逆に現地職員への負担になること、またミャンマーの医療体制を考えても自分の安全管理の点や、ミャンマーへの負担を課せることは出来ないと思い、帰国を志願した。

 

そんな決断をし、約2年8ヶ月のミャンマー滞在を通して、今思うことを纏めておきたいと思った。

 

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帰国時のヤンゴン空港の様子。ほぼ空港閉鎖状態だったため、人も物もない。

①自分のスキル・経験値アップ!

私は国際協力従事者として、開発途上国の現場にて勤務するのはミャンマーが初めてであった。今思うと、毎日が試行錯誤の連続であったが、振り返ると多くの面で自分のスキルアップに繋がったと思う。

 

大きく分けて、業務面と生活面でスキルまた経験値がアップした。

 

業務面では、例えばプロジェクトマネジメント、リーダシップ、チームビルディング、異文化コミュニケーションスキルが主に上げられる。特に、ミャンマーという民族、宗教、歴史それぞれがとても複雑な文化背景を持った国で、ものごとを進めるのは容易ではなかった。ミャンマーも日本に似てハイコンテクスト文化であるために、言葉の裏側を常に察しなければならなかった。また、軍政の歴史を抱えている国で、本音を表面に出さない。また上が全てで、リーダーや上司の指示が絶対であり、質問や自分から意見をすることがない。表面的に進めることは容易かもしれないが、真の意味で自分のチームメンバーやカウンターパートからの信頼を得て、一緒に考えながら事業を動かすということは容易では無かった。そういった中で、徐々にチームメンバーが質問をする様になり、若いメンバーでも自分の意見を言い、自分たちで考え主体的に行動してくれる姿が見えたのは非常に嬉しく頼もしかった。

 

生活面では、これはまさにサバイバル能力がアップしたと、胸を張って言える。ミャンマーの田舎街(ヤンゴンからバスで約6~7時間)に2年半以上住んでいれば、自然とこの能力は上がるものかと思うが、まさに忍耐の連続と楽しむ力だと感じた。

 

今まで自分が考えていたスタンダードは全くスタンダードではない。

 

日本や先進国では当たり前の電気や水道は当たり前ではない。家のあちこちが壊れまくる。近所迷惑という概念がなく、朝から晩までうるさい。ゴミはそこら中に捨てられている。スーパーはなく、お肉がそのままどでーんと売られいる市場に行かなければならない(私は鳥が嫌いなため、市場で鶏肉コーナーに行く度にひっくり返りそうになっていた)。ローカルの人とのコミュニケーションには骨が折れる(一つの合意を取るのに、永遠と時間がかかる。頼んだものが、頼んだどおりにいかない。急かさなければ、一生進まず)といった様な、生活環境についてあげだしたらきりがない。

 

もうだめだ、と思うたびに私は何故ここにいるのか、と自分に問い続けた。快適な生活を求めて来たわけではない、と自分を奮い立たせる必要があった。また、楽観的になること、シリアスになりすぎず何事も適当に受け流すことが一番だ。大抵のことでは驚かず、対処していけるサバイバル能力が確実にアップした。

 

また、ミャンマーの田舎生活を通して、生活するということの本質にも気づかされてきた。日本ではスイッチ一つで電気がきて、お湯がきて、綺麗に排水もされ、、スーパーに行けば綺麗なお肉、魚、新鮮な野菜が売られている。こんなにも快適な生活が出来る裏には、整ったインフラや、目には見えづらいが消費されている大量の資源、労働また生き物の命がある。ミャンマーの伝統的な生活様式(非常にエコ!)と比べると、大量の電気や水を使用し、また簡単で豊富な食の選択が出来る現代生活が、快適さと引き換えにどれほど地球に負荷を与えているのだろうか。自分が生活していくということの認識、また地球に対しての責任を感じる様になった。

 

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至るところで見られる道路工事の様子。

 ②国際協力の醍醐味を味わえた

NGO職員として、現場に入り活動を行う中で最も強く感じてきたことは、現地職員と共に働ける喜びだ。勿論、日常レベルでは喜びより苦労した面が多いのも事実だ。しかし、彼らの真摯な姿勢と弛まない努力により、くじけそうな時は常に励まされてきた。共に汗を流し、壁を乗り越え、感動し、喜び、言葉や文化の壁を越えて感情を共有してきた。一つ一つのステップはとても小さいものの、それらが確実に積み重なってここまできたという感じだ。特にミャンマーは国の発展に向けて、今あらゆるものが変化している。そういった環境下で、草の根から国を一緒に作っていく過程に携われるということは、何よりも幸せなことだった。

 

「国際協力とは?自分には何が出来る?」

 

現地語も話せず、現地文化に精通していなく、専門性も然程高いわけではない自分にとって一体何が出来るのだろうか、本当に地域のために自分は役立っているのだろうか、自分の視点や行いが果たして適切なのだろうか、様々な課題がある中で自分の活動だけでは不十分ではないか、、そんな問いを持ったことも多かった。また、自分は所詮外国人でありこの先ずっとミャンマーにいるわけでもなく、自分の一時的な存在がどれほどの意味を為すのか、又は負にさえなっていないだろうか。

 

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行く度に出迎えてくれる農村部の学校。

そんな問いを抱えながら、全てに答えは出せなくとも、自分の存在意義を見出してきた。

 

それは、自分は触媒者として重要な役割が果たせるのではないか、と思う様になった。

 

地元の人たちが持っていない価値観をぶつける。それが正しいかは分からないが、少なくとも地元の人たちが持ち合わせてない角度や物差しから図ることで、互いの思考が刺激され、新たな創造が生み出される。そんな役割を自分は担えるのではないかと思いだした。だからこそ、自分の感覚は常に研ぎ澄ましておかなければならない。そういった意味では、私は現地化することに恐れを感じていた。それは、国際人であるべき自分の価値を下げてしまう様に思ったからだ。もちろん、現地の文化を尊重し親しみ、現地に適した支援事業を行うべきである。しかし、そこに自分が携わるということの価値づけを常にしなければならない。

 

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自分がミャンマー駐在を3年を目途に考えていることを事前に伝えられず、またコロナのために早まった帰国。

 

共に働いてきた現地職員にとっては突然すぎたお別れ。職員たちが大号泣しながら、別れを惜しんでくれた。普段ものを多く語らない、また割と死を含め、別れに対して然程執着しない人たち(歴史的な影響も含め)だと思っていたため、驚きまた申し訳なく感じた。職員に対する普段の私の思いが通じていたのだと思うと、本当に言葉にならなかった。彼らとの別れは辛いが、最高の職員たちに囲まれたことは、最高の財産となった。

 

③ミャンマーという国に教えられた人生の豊かさ

最後に、ミャンマーという国に行けて、本当に良かったと心から思っている。行く前は、経済的にも貧しいミャンマーの発展のために貢献したいと思っていたが、終わってみると、自分が貢献した成果よりも自分がミャンマーに教えてもらったことの方が大きい気がする。

 

それは、人としての豊かさが半端ではない、ことだ。

 

他人を尊び、助け合いが当たり前の文化がそこにはあった。上述の通り、勿論生活で苦労することは沢山あった。家族や気の置ける友人がいなくて、辛く寂しくなるときも沢山あった。しかし、そんなとき、いつもそこにはミャンマーの人々の優しさがあった。困った時はいつでも、どれだけの時間がかかっても助けてくれる、家に呼んでくれて、常に心配をしてくれて、常に守られている安心感があった。言葉も出来ない外国人をこれだけ暖かく迎えてくれるミャンマーの抱擁感。

 

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施しの水が街の何処にでも設置されている。

また、教える人はセヤ/セヤマ(ミャンマー語で先生)として、尊ばれる。NGO職員というのもあり、国の発展のために寄与してくれている好印象を大抵は持ってくれ、大した教えもしていない私にも、多くの方々が敬意を持って接してくれてることを日々感じられた。タクシーの運転手さんとの会話で、NGOで勤務していると言うだけで、「ミャンマーのために働いてくれてありがとう」と深く感謝されたのは一度や二度ではない。

 

また、ミャンマーの人は休むのが得意技だと、私は思っている。

 

ついつい効率性を求めて、全て効率良く済まそうとする自分がいたが、それは違うんだよ、と毎度教えられている様だった。せかせかと急ぐのではなく、ゆっくり、ゆっくり。逆らわずに、時間の流れに身を任せる。知らない人と世間話を繰り広げ、毎晩ボードゲームに興じ、眠いときには寝て、暑いときにも寝て、何かをただ待って、何かが無くても良くて。一見、非効率と見える中にある人生の豊かさ。「トイレはどこ?」と飲食店などで聞くと、ほぼ100%近く、トイレまで手を引いて案内してくれる。一つのものを買うのに、永遠と話している。何かトラブルが起きると、すぐみんなで集まる。そういった、現代人の私たちが忘れかけていた人生の日常的な幸せのヒントがミャンマーには沢山あった。

 

また、この国の厳しさと希望を見た。

 

物質的に豊かとは決して言えず、粗末な環境で生活する人々、学習する子どもたちが多くいた。ボロボロの制服を着て学校に通う子どもたち。紛争などから逃れてきた孤児、何らかの事情で親に育ててもらえなくなった孤児。地理、民族、宗教、様々な背景と共に、貧困はすぐそこにあった。

 

しかし、同時に貧困から抜け出したいと願う親や村人の思いにも触れてきた。あるとき、初めて訪れた村の学校で活動のモニタリングをしていると、一人のおばあちゃんが突然私のところに来て、手を取ってこう言った。

 

「私たちの国は貧しいです。私たちの国を支えてくれて本当にありがとう。」

 

と、それだけを言いに日本人の私の手を取って伝えてくれた。自分の国を貧しいと言うことがどういうことなのか、それでも自分の子供や孫に寄せる期待を私は感じ取った。

  

今は経済的に貧しい国であるのは事実だ、しかし、課題と同時に感じる多くの可能性も見てきた。

 

子どもたちに良い教育を、と熱心な先生たち。

 

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教育改革が行われているミャンマーで、熱心に学ぶ先生たち、思い思いに学ぶ子どもたち。


 

孤児をかくまう僧院。子どもたちのことを一番に考える僧侶、尼僧、またボランティアで僧院や孤児院の運営を手伝う人々。

 

退職後は避難民キャンプに行き、ボランティアをする計画だと話す校長先生。

 

向上心やアイディアに満ち溢れ、学ぶことに一生懸命な若者たち。

 

ミャンマー人の勤勉さはこの国を必ず強くする。

 

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伝統的な価値観と向き合いながら、国を進化させるのは容易なことではない。時間がかかる。それでも、国のため、社会のために、と希望を持った人たちとの出会いを忘れない。

 

 

ミャンマーという、

複雑な歴史背景を持ち、

混沌とした変化の中に立たされ、

それでも優しさと愛に溢れ、

伝統を重んじながらも、

新しい文化や価値観も取れ入れながら、

 

一生懸命前進しようとする国が私は大好きになった。

 

 

いつか、また戻ったときのミャンマーはどんな姿になっているのだろうか。変わるものも、変わらないものも、ありのままに見てみたい。

 

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くじけそうになったとき、いつも支えてくれたミャンマーの大きな夕陽。